このコンテンツは我が慶應医学部・看護短大弓道部の部誌「DerBogen」の第18号に掲載されていたものに、若干の加筆をさせていただいたものです。
もとをただせば、豪射列伝は内田先生(73)が書かれたもので1990年に最終版ができたと思われます。月日の経過とともに変わった部分もあるために、これに少し手を加えさせていただきました。また豪射列伝続編は71期井上先生以降の先生方のものです。
○ 「レギュラー登録」対象の試合(勿論 Aチーム)
○ 「レギュラー的中率」
上記の試合に予科戦(上位5人)・もみじ会の戦績を加えて計算。
途中交代の場合もカウントしました。
○ 木盃獲得
日本医科大学交流射会は含めていません。Bチームでの獲得は含めています。
では我が弓道部内で伝説とまでなっている方々を紹介させていただきたいと思います。なお、この豪射列伝とその続編はほぼ原文のままですが、誤字、脱字、あるいは内容に関するご要望などありましたら高橋までご連絡下さい。
2002年秋 高橋 秀典(86)
奥山訓子(73) 女性初のレギュラー入りを果たした女性射手
・・・・・・・ご本人のご希望により削除いたしました
加藤 淳 (80) 妥協することを知らなかった早咲きの名選手
岩崎 栄典 (80) 常に上を目指して努力し続けた体育会級の射手
御園生 与志 (83) 慶応医学部弓道部史上最も袴の似合う男
真の実力者で、部内試合でも対外試合でもその才能を遺憾なく発揮した。またレギュラーとしては、どのポジションにおいても見事な的中を飾った。部内試合では田村杯を制すること20回(入賞は27回)。百射会も2度制しており、第1回の百射会の優勝者でもある。対外試合の成績も抜群で年間6試合程度の当時、少なくとも19試合に参加しており、その的中率は7割3分9厘である。14中を下回ったのはわずかに3試合だけであった。学一学二では大前を勤めた(9試合で7割5分)。他にも二的、四的、落とどこでも当てられる人だった。
試合成績:的中率 0.739
(19中1回、18中1回、16中7回、15中1回、14中6回 現在で木盃16個)
タイトル:田村杯7連覇、田村杯優勝20回、田村杯入賞27回
目黒(47)中村(49)に続いて慶應が生んだ3人目の名大前。2年間で15試合の大前を勤め、実に7割4分の高的中率をマーク。他の追随を許していない。また、57期の大島、佐藤、篠原、羽金の黄金カルテットを率いて、二年連続全医体優勝を遂げた。個人的にも、田村杯優勝9回、百射会優勝2回、入賞7回とめざましく、唯一の二百射会と第1回大鳥杯における優勝者でもある。OBとして参加した百射会でも入賞するなどのエピソードは多い。
試合成績:29試合で的中率 0.660
(17中4回、16中2回、15中7回、14中2回 現在で木盃15個)
同期の中では最も多くの試合に出場し、中盤に位置して確実に的中させていた。勝負のキーを握っていた男である。三的、四的で15試合に出場し6割7分3厘をあげている。第二期の黄金時代の中堅を死守していた男である。また、フル出場した試合が30試合で、これは部内でトップレコードとなっている。常に静かに弯いては、着実に当ててくれていた、そんな頼れる男であったと思う。
試合成績:30試合で的中率 0.610(16中2回、15中3回、14中4回)
タイトル:百射会優勝(88中)、田村杯優勝6回
レギュラー登録22試合のうち、二的を勤めること18回。成績は6割5分3厘と、第3期の黄金時代の二的を期待に応えて完璧に守り通した男。大前・神定と組んだこのコンビは、後ろを見事に引っ張り、他校にも広く名の通った存在となった。大会でも臆さず、堅実に当てていくその技の切れ味は天下一品で、まさに「伝説の二的」。おそらく後にも先にも彼以上の二的は存在し得ないであろう。
試合成績:的中率 0.658
タイトル:百射会優勝2回、入賞3回
職人的にポジションをこなし、大前5試合、三的6試合、落前9試合を経験している。どのポジションにおいても主将の期待に添って当て続けたが、特筆すべきは落前での活躍である。実に7割7分7厘の驚異的な的中を残している。レギュラー登録21試合のうち、7割を切ったのはわずかに6回のみ。試合での皆中もきわめて現実的で、他校には脅威と畏怖の念を与え続けていたが、残念ながら達成の前に引退となった。
試合成績:的中率 0.718
(19中2回、18中2回、17中1回、15中3回、14中7回 現在で木盃15個)
タイトル:田村杯優勝5回、百射会優勝1回、入賞5回
57期の黄金カルテットにおいて、主に三的を引いていたが、その安定感には定評があった。三的における的中率は6割9分4厘。彼を含めた57期はその才能もさることながら、神定主将の薫陶を受け、さらにその技に磨きをかけていった。二的佐藤、三的羽金、落前篠原、落大島の4人は同学年が輩出するレギュラーとしては空前絶後のものであった。その中にあって羽金は、全日本で個人優勝も果たしており、全日本1位の弓弯きとなった。
試合成績:的中率 0.669(16中2回、15中2回、14中3回)
タイトル:田村杯優勝6回、百射会優勝1回、入賞3回
レギュラーは四的・大前・落と無難にこなした。起伏が激しく高的中もあれば、ポカもやる極めて人間的なレギュラーだった。しかし部内では他の追随を許さず、田村杯、百射会では、驚異的な成績を収めている。当時年2回の百射会で、予科2以来学4前期まで7連覇を果たして率8割1分6厘を残している。予科2から出場した百射会全てに入賞し、率7割8分であった。
試合成績:的中率 0.569
タイトル:田村杯優勝7回、百射会優勝7連覇、入賞9回
学2の頃から徐々に頭角を現しはじめ、主将就任からは押しも押されぬ偉大なプレイヤーとして、現黄金期の地盤を松林元主将らとともに築きあげた。黄金期の中核ともいえる上村、井上、志津木他多くのメンバーに少なからぬ影響を与えた。学4での通常練習成績は8割を越える偉業を成し遂げた。主将時の人選や、采配には天才的な手腕を遺憾なく発揮し、細部にまで目を配るリーダーシップは見事であった。
試合成績:的中率 0.561
試合個人優勝10回、入賞25回
タイトル:田村杯優勝3回、入賞10回、百射会優勝3回(最高中91中)、入賞7回
何事もないようにグランドスラムをやってのけた天才リーダー。最も神に愛され、最も人間味あふれる神様。我々には偉大すぎた中村A元主将をも越えた点があった。試合に対して臆さず、練習通りの結果を大舞台でも出し続けたことである。連続8試合の木盃獲得は、抜けない記録。そんな彼もやはり遅咲き、地道な正道の練習が実を結んだ。主将就任で神は彼を変えた。就任後19中2回、18中2回、17中16中15中各一回。全日本2位、東日本2位、関東1位、2位。弓に邪道は通じないことを証明し引退。そして学4の夏かつての王者は再び輝いて見せた。
試合成績:的中率 0.609
(木盃獲得8個 19中2回、18中3回、17中16中15中各一回)
試合個人優勝13回、入賞30回
タイトル:第55回関東個人準優勝、第32回東医体個人準優勝、
第56回関東個人優勝、第23回全医体個人準優勝・射技優秀賞、
第33回東医体個人優勝・最高学年賞、
田村杯優勝8回、入賞9回、百射会優勝3回、入賞6回
名門慶応の大前を勤めること12回。成績6割7部9厘。神定に続く慶応4人目の強力大前。故障を抱えても気力の充実で的を射抜いてきた。試合の緊張で自分のテンションを高めていった。ここ一番の大切な一射は、確実に当て、主将時の落も似合っていた。責任感が強く寡黙で、試合采配はいうに及ばず、射手として、学生として最も大切な何かを常に部員に求めていた礼節正しい雄将。前年の華々しい戦績を引き続き、再び始まった常勝慶応の伝統を死守することに自己をかけて戦ってきた。息の合う相棒、阪埜とともに常に地道な練習を続け、最後の秋関東で有終の美を飾り、慶応の不敗記録を延ばし引退した。
試合成績:的中率 0.650(木盃獲得13個 16中7回、15中2回、14中4回)
タイトル:第24回全医体個人MVP 第57回関東個人優勝、
第34回東医体個人4位、第25回全医体個人4位・射技優秀賞、
田村杯優勝2回、入賞9回、百射会優勝2回、入賞6回
早咲きでしかも華麗に駆け抜けていった「一瞬の美」のプレイヤー。近年最高に人徳深い予科主任として、予科全員の心をとらえて放さなかった名将。楽しいクラブを築き上げた功績は筆舌に尽くしがたいものがある。そして2年眠っていた獅子は完全燃焼の副将として甦った。前年の華々しい戦績を引き継ぎ、維持するためには何でもした副将。ときには戦力として、ときにはレギュラーの良きアドバイザーとして。この動かぬ副将が応援席にいると、不思議と勝てる気がしたという。心の底から湧きあがるその応援は大きな力となって、レギュラーの弓を通して、グランドスラムとして彼自身へと返っていった。そして史上最強のパートナー井上、史上最強の学1、史上最強の予科陣に守られて、陰に徹した副将はクラブを去っていった。とてつもなく大きなお土産を残して。
関東大会6連覇、東医体全医体3連覇に全て出場したすごい射手。華々しい戦績ばかりが目に付くが、慶応が挑戦者であった頃を体験している苦労人。新人戦に負け、関東で足を引っ張ったこともある。そんな苦労が彼に流麗で冴えのある射を与え、彼を四大大会制覇の立役者としたのである。
主将時には、レギュラーだけでなく部員全員が楽しく弓を引き、且つ上手な弓引きになれるように指導の充実を図るなど部の改善に努めた。試合においては落でほぼ7割を超える高的中で立を支え、井上前主将から引き継いだ常勝慶応の不敗記録を更に延ばした。
試合成績:32試合で的中率 0.612
(木盃獲得14個 16中3回、15中3回、14中8回)
タイトル:第57回関東個人5位、第59回関東個人3位、第60回関東個人5位
田村杯優勝5回(入賞12回)、百射会優勝1回(入賞6回)
全医体を取りしきり、2年の間部活のマネージメントをこなした実直なる主務。厳しく誠実な弓への取り組みを評価され、学2にしてついに東医体デビューを果たした。初出場ながら、激しく競り合う信州大学を大とめでとらえ、東医体2連覇を飾る立役者となった。同年の全医体では14連中の末に個人3位を獲得。その後も主務を完璧にこなしながらの猛練習でレギュラーとして多くの試合に出場、慶應医学部黄金期を表、裏両方から支えた。個人タイトルとして東医体個人準優勝も忘れられない。
試合成績:16試合(320射188中)で0.588
(木盃4個 16中1回、15中2回、14中1回)
タイトル:第24回全医体個人3位、第59回関東個人5位
田村杯入賞6回、百射会入賞2回
大前を引くことに特に強い信念を持っていた射手。大前として出場した8度の大会のうち7度団体優勝を成し遂げ、切り込み隊長の責を十分に果たした。団体優勝競射においては対戦校の大前の間合いの間隙をつき速攻で慶応の初矢を的中させ、慶応の勝利を確実なものとした。
通常練習における的中は驚異的で皆中は45回以上、百射会においてもその実力を遺憾無く発揮した。情熱も人一倍で、全医体3連覇にちなんで道着に3つの星の刺繍をしていたという逸話が残っている。その熱き闘志は語り継がれ、現在の弓道部の源となっている。
また、文才を生かした「悪魔の弓道用語辞典」「豪射列伝」などの名著がある。
試合成績:31試合で的中率 0.588
(木盃獲得7個 17中2回、15中2回、14中3回)
タイトル:第33回東医体個人3位兼射技優秀賞、第25回全医体個人準優勝、
田村杯優勝4回(入賞12回)、百射会優勝7回(入賞15回)
注) 彼は予科戦新人戦の2試合に勝ちを収め、予科主としての責をまっとうしたことで、自分を誉えた言葉が「史上最幸の予科主」であった。
予科1の三医大戦デビュー以来、部内最多を誇るレギュラー登録34試合。驚異的にも羽分をきった試合はわずか2試合。個人賞を総なめし、木盃獲得15回(部内最多)。その戦績だけで素晴らしい射手であったことは想像に難くないが、彼の武功を詳しく見るともっと驚かされる。連覇時代の大会における団体優勝競射は3回あったのだが、優勝の懸かった5本の矢を全て的に沈めたのは彼だけであった。所謂「大事な矢」を抜かない。それゆえ、勝負矢を放つことの多い落前を任されていた。一本差に迫り、彼の矢が同中に持ち込み、落に最後の勝負が任せられる。まさに慶応の落前に野田あり。
人柄と射技、感動的な名勝負。彼は医学部弓道部界で最高の射手だろう。
試合成績:34試合で的中率 0.662
(木盃獲得15個 18中1回、17中3回、16中3回、15中5回、14中3回)
タイトル:第57回関東個人新人賞、第25回全医体個人7位、
第60回関東個人3位、第61回関東個人準優勝
第26回全医体個人7位兼射技優秀賞、第62回関東個人優勝
第36回東医体最高学年賞兼射技優秀賞
田村杯優勝6回(入賞12回)、百射会入賞3回
彼の弓道人生は順風ではなかった。目の前で弓道部が天国から地獄に落ち、地獄から再び這い上がろうともがく時期の真っ只中にいたのだ。彼自身、10年ぶりに予科戦・新人戦の2試合を負けた学年で「予科2の2試合を負けた学年は学3になっても同じ過ちを繰り返す」というジンクスを背負っていた。しかし彼は真っ向から立ち向かっていった。情熱的な心、強いリーダーシップ、自らが手本となる射技。主将になり伊藤(77)川澄(78)という強力な選手を率いて春に関東優勝杯を奪還。最難関の夏には4年ぶりとなった東医体優勝を成し遂げ、秋の関東は余裕の勝利。まさに運命という魔物に打ち勝った激しい弓道部人生であった。
試合成績:25試合で的中率 0.553(木盃獲得6個 19中1回、14中5回)
タイトル:第65回関東個人優勝、全医体射技優秀賞、
田村杯優勝1回(入賞5回)、百射会優勝3回(入賞3回)
‘95年には15000本、‘96年には17000本もの矢数をかけ、練習の鬼と化し慶応の練習形態を変えた男。しかし忘れてならないのはただ漠然と矢数をかけていたのではなく、常に自分の射技を計画的に修復し、試合まで日にち単位での調整を怠らなかったことである。彼にとって立練習とは単なる選考会ではなく、「抜く原因そして中てるための武器」を再確認する場であった。
絶え間ない努力と多分医学生では感じ難いであろう弓との親密な時間を経て、通常の練習では8割を超える的中を出し続け、試合では予科戦個人優勝、全医体個人優勝さらに多くの大会団体優勝に貢献することとなった。その原点は熱い先輩方との出会いであり、また若い頃の敗北から得た多くの経験に由来しているのだろう。
試合成績:26試合で的中率 0.566
(木盃獲得6個 17中2回、16中1回、15中2回、14中1回)
タイトル:予科戦個人優勝、全医体個人優勝、
田村杯優勝4回(入賞9回)、百射会入賞4回
慶応の大前をつとめること15回。内田に続く慶応6人目の強力大前。彼の長い会から放たれた矢が的を射抜く音は、慶応優勝の第一歩を刻んできた。
主将時には落でも活躍。秋関東優勝・春関東優勝と着実に功績をあげた。部内では「活力のある弓道部へ」を目標にして様々な改善に力を尽くし、射技の向上だけでなく、まとまりがあり常に前向きに進む弓道部を作り上げた。大会前には四字熟語の格言にちなんだ目標で活力をつけてきた。そんな彼が東医体に向けて掲げた言葉は「捲土重来」。その言葉通り勢いを盛り返した慶応は東北大学から優勝杯を奪還してきたのであった。惜しむらくは全日本制覇できなかったことか。東医体・全医体2試合ともに団体競射!という落にとって最も重圧のかかる場面。彼は勝利のかかった4射すべてを的に叩き込んだことを付け加えておく。
試合成績:33試合で的中率 0.610
(木盃獲得12個 18中1回、17中1回、16中2回、15中2回、14中6回)
タイトル:第67回関東個人3位、第69回関東個人優勝、第40回東医体個人4位、
田村杯優勝4回(入賞11回)、百射会優勝3回(入賞6回)
付録として
秋季関東大会 乾坤一擲 一本一本が大切である。
春季関東大会 一簣之功 5連覇達成のための最後の総仕上げ。
東医体 捲土重来 昨年の雪辱を今年こそは。
全医体 緊褌一番 気を引き締めてこの大舞台に立ち向かおう。
予科1にして東医体女子3位そして新人賞、予科時代からの大活躍と、天性の才能を持っていたことがうかがえる。もみじ会では個人優勝3回・準優勝1回といつも好成績をおさめていた。田村杯における女子優勝は原のためにあるようなものであった。団体戦では2的に相性がよく、強力な大前とともに中てつづけた。
ただ練習にはムラもあり、もっと大会に出場してよかったのではないかと思われる。それでも春シーズンには、毎年心憎いほど絶妙に調子を整えてきた。現役最後の学3では、苦手の夏も克服し、引退試合の全医体で木盃をとり、引退の花道を飾った。
試合成績:23試合で的中率 0.582(木盃獲得7個 15中4回、14中3回)
タイトル:第35回東医体個人3位・女子新人賞、第69回関東個人3位
田村杯優勝5回(入賞11回)、百射会優勝1回(入賞1回)
彼は大学から弓道を始めたにもかかわらず、2年の春には既にレギュラーに入ってしまった逸材であり、そこから引退するまで不動のレギュラーとして大会団体優勝、対抗戦団体優勝に幾度となく貢献した。だが、この華々しい活躍の裏には血の滲むような努力があったこともまた確かである。1年の時から上級生顔負けの矢数をかけ続け、その練習内容もストイックなまでに基本に忠実であり続けた。その結果として得られた美しい射形は安定した的中を供給し続け、普段の練習で的中率が7割を下回ったことは滅多に無かったようだ。決して妥協を許さぬその射は見る人の感動を呼んだに違いない。
試合成績:37試合で的中率 0.527(木盃獲得6個 17中1回、16中1回、14中4回)
タイトル:第70回関東個人4位、第31回全医体個人優勝
田村杯優勝4回(入賞6回)、百射会優勝1回(入賞6回)
彼は慶應志木高校弓術部元主将として入部し、1年の時から団体戦に出場する機会を与えられた。そして、2年春からはレギュラーに定着し、2年秋から引退まで大前として28試合連続出場して的中7割5厘という驚異的な数字を残している。医学部弓道界にあって、彼の実力は群を抜いていた。練習での的中率は8割を上回り、試合で慶應医学部弓道部史上初となる20射皆中を出した経験もあり、まさに体育会級の射手であった。しかしそれでも彼は慢心することなく、謙虚に上を目指して努力を続けた。彼の弓道に対する真摯な姿勢がその高的中につながっていたことは間違いない。
試合成績:39試合で的中率 0.635
(木盃獲得17個 皆中1回、19中1回、17中2回、16中4回、15中4回、14中5回)
タイトル:第40回東医体敢闘賞、第72回関東個人4位、第41回東医体個人優勝、第74回関東個人5位、
第75回関東個人4位、第42回東医体個人5位
田村杯優勝1回(入賞9回)、百射会優勝5回(入賞10回)
中学、高校と体育会弓術部に所属していた彼の弓道への熱の入れようは並大抵のものではなかった。肌身離さず弓道教本を持ち歩き、暇さえあればそれに目を通していたし、実習で遠くに行く時や旅行に出かける時などは鞄の中に必ずかけとゴム弓を忍ばせていたほどだ。また、段位に関心のない部員が多い我が部には珍しく、審査にも積極的で参段を持っている。だが、こうした地道な努力はなかなか報われず、的中率が3割を下回ることも稀ではなかった。それでも彼は愚直なまでに努力を続け、とうとう四年の春に開花したのである。そこからは生まれ変わったかのように高的中を連発し、引退するまで大前として一年半チームを引っ張り続けた。また、彼はその特徴的な風貌とキャラクターによっても非常に目立つ存在であり、引退時には関東ではすっかり名の通った射手となっていた。
試合成績:32試合で的中率 0.538(木盃獲得7個 18中2回、16中2回、14中3回)
タイトル:第35回全医体個人10位、第80回関東個人4位、第81回関東個人優勝、第82回関東個人5位
田村杯優勝1回(入賞6回)、百射会優勝4回(入賞7回)
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